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爆発赤痢事件
1937年9月25日、大牟田市で集団赤痢が発生。子供を中心に市の人口の約1割に当たる約1万2千人が発症し、712人が死んだ。旧内務省は当時、市の水源だった熊本県内の井戸に赤痢患者の汚物が混入し、水道を通じて感染したと発表。だが水道水から赤痢菌は発見されず、引責辞任した市水道課長が原因を調査。発生当日、爆発事故を起こした市内の化学工場周辺に患者が集中していたことを突き止めた。工場は毒ガス原料を製造していたが、原因は不明のままだ。
(2014年10月8日掲載)
追跡 ?=戦時機密の壁 真相闇のまま 研究会発足から10年 712人死亡 大牟田「爆発赤痢事件」
●発生の記憶、風化の懸念も
戦時下の機密の壁に阻まれ、発生から77年たつ今も原因が解明されない事件がある。大牟田市で1937年9月、赤痢の集団感染で712人が死亡した「爆発赤痢事件」。地元で市民有志による研究会が立ち上がって10年になるが、事実の掘り起こしが厳しいまま会員の高齢化が進んでいる。今や事件そのものを知らない人が多く、歴史が風化しつつある。
「寝ている時も父の夢を見るほど、夫は一時も事件が頭から離れないようでした。汚名をすすぐためだけに生きました」。塚本紫雅子さん(83)=熊本県長洲町=が託された資料を手に語る。
夫の唯義さんは、当時の市水道課長久光さんの長男。水道水に赤痢菌が混入したことが原因とする政府発表により、引責辞任に追いやられた父親の無念を晴らすため、56年間にわたって原因究明に当たり、帰らぬ人となった。
原因をめぐっては、国が発表した水道説だけではなく、同じ時期に市内の化学工場で起きた爆発事故との関連を指摘する説もある。
工場は毒ガスの原料を製造していたが、爆発事故の直後、タイミングを合わせたかのように赤痢菌を成分とする赤痢の予防薬が市民に配布されたという。唯義さんは国や軍が爆発事故や毒ガス飛散の可能性をもみ消すため、薬を配布したのではないかと主張した。赤痢の感染患者は工場周辺に集中していた。
事件が起きたのは、日中戦争の発端となった盧溝橋事件から2カ月ほどの時期。戦中に毒ガス兵器が使用されたと旧軍資料で判明しているが、製造は秘密にされた。69年発刊の市史では「戦争遂行に支障があると見なす言動はすべて軍部、特に憲兵によって封じられた」と指摘し、「水道水が原因ではなかったことだけは、はっきりと実証される」と記してある。
真相解明のため、2004年に地元の市民15人で発足したのが「大牟田爆発赤痢研究会」。紫雅子さんも一員として、資料の読み込みを続ける。だが、結成から10年たつが、真相を裏付ける証拠は乏しい。亡くなるなどして会員は半減した。
池田香沙達(かさたつ)事務局長(66)=大牟田市=は「軍と企業の秘密の壁は厚い。研究会の継続も厳しく、事件が歴史の中に完全に埋もれようとしている」と語る。
一方、北九州市では事件から77年となる9月25日、追悼集会が初めて開かれた。企画したのは北九州市立大学職員の原田和明さん(55)。化学兵器製造の歴史を研究する中で事件を知り、語り継ぐ必要があると考え、市内の公園に灯籠50本を並べて「9・25」の文字を描いた。「712人が死んだ事件が原因不明のままでいいはずがない。次世代に伝え、いつか真相にたどり着く日が来ると信じたい」。参加者は5人にとどまったが、来年以降も集会を続けていくという。
